夜更かしティータイム

文章と詩をおいておくところ

ねばー、ねばーれっとみーごー

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 2年間浪人した。きつかった。長かった。結局思い通りにはいかなかったけど、なんとか終わった。自分も自分のまわりもほとんどぜんぶ擦り切れてたから、終わってよかったよ、ほんと。両親がいろんな人/ところに電話かけてるとか、ばあちゃんがスーツ買ってあげるって張り切ってるとか、そういうのは嬉しいもんだね。ようやくだよ。

 

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 二十歳になってもお酒は一滴も飲んでなかったけど、このまえ友人たちといるときに初めて飲んだ。サッポロの缶ビール。おいしくなかった。ほんとにまずすぎて笑っちゃった。あんまりハマんないのかな、お酒。でも、酔ったら陽気になるしいっぱいしゃべるようになる。それは楽しい。

 

 父親がおれといっしょにお酒を呑むのをずっと楽しみにしてたのは知ってたから、おれは「飲むの初めてだよー」って嘘ついて一緒に呑んだ。ビールはやっぱりまずかった。嘘ってカント的にはアウトだけど、親の夢は叶えてあげたいものだし。業はぜんぶおれが背負うよ。アサヒはサッポロよりはマシな味をしてる。

 

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 時間的な余裕と精神的な余裕がすこしだけできたから、ここ最近はカズオ・イシグロを読み返してた。

 『遠い山なみの光』(A Pale View of Hills)と『浮世の画家』(An Artist of the Floating World)は個人的にあんまり好きじゃない。とくに最初のほうはノれないなあと思いつつも、母娘や小野の葛藤とか、記憶のねじれとか、周囲の反応から感じさせられる矛盾とかがあって、イシグロってこんな感じだったな、って思い出した。

 『充たされざる者』(The Unconsoled)はわけがわからない。文脈を解いていけない。不条理ではあるんだけど、理屈で押せるなみたいなところもあって、主題を追っていくためにはバランスが要る。『わたしたちが孤児だったころ』(When We Were Orphans)はその不安定さみたいなのがマイルドになってる。失踪した両親の捜索(捜索劇、とも言える)が、主人公にとっては一大事でありながらも、周囲の人間にとっては些事にすぎないところが皮肉っぽい。

 『日の名残り』(The Remains of the Day)と『わたしを離さないで』(Never Let Me Go)の有名な2作は初めて読んだ高校生のときから気に入ってた。スティーブンスが執事である以外の選択肢を持たないところとか、キャシーたちが抵抗も逃亡もせずにただの噂でしかない猶予なるものに縋って真実の愛を証明しようとするところとかは、どうして「無抵抗」なのだろうと考えさせられる。でも、自分のことに引きつけて考えてみると、それもごく自然なことだと感じる。困難や理不尽に直面したとき、広い視点をもって、自分のいる世界とかその世界を支配するシステムとかをひっくり返そうと革命を起こせる人間はどれほどいるだろう。少なくとも、おれは自分のことをそれができない側の人間だとどこかでわかっている。殺したいほど憎い人間がいても、決して殺せはしない。苦しさも悲しさも惨めさも全部ひっくるめて、自分がいまここにあるという小さくてせまい運命のなかで、なんとかしたい。その運命の中で幸せになろうみたいなことでもなくて、できる限りのこと(たとえば、猶予)を希求して、頑張る。イシグロの小説は共感を拒否するような感じがあるけれど、この2作に等身大の自己とか人間っぽさを感じずにはいられない。

 『忘れられた巨人』(The Buned Giant)は語りもジャンルも他の作品とはテイストが違う。失った記憶を取り戻すにつれて憎しみを再燃させる姿が描かれることによって、悲劇を終わらせるためには悲惨な過去の忘却が必要になることもあるのではないかということが提示される。記憶とは何か、そして悲劇を終わらせるとはどういうことかを考えさせられるところは、やはりイシグロの作品っぽい。

 『クララとお日さま』(Klara and the Sun)は読み返した中で一番ぐっときた。イシグロ作品の最たる特徴である「信頼できない語り手」については、クララ(人工知能を搭載したロボットで、本作の主人公、語り手)には世界や物事の認識の限界があることを読み進めるうちに周囲の言動から感じることができる。その点で、やはりクララは「信頼できない語り手」ではあるけれど、故意にごまかしたり隠したりすることがない純粋さの塊のような存在であるクララのことを、信頼せずにはいられない。人工知能やクローンがモチーフであっても、イシグロはずっと普遍的に人間のことを書いているし、人間を愛している。そう思った。

 

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好きだった雨、雨だったあの頃の日々、あの頃の日々だった君 /枡野浩一

 

 短歌に興味をもちはじめた高校生のころから好きな歌。定型に基づいて区切りをつけると、〈好きだった・雨、雨だった・あの頃の・日々、あの頃の・日々だった君〉となって、音の区切りに意味の区切りがいつまでも追いつかず遅れているところが、意味的なかなしさ/わびしさ/さみしさを歌全体からも響かせている、そんな秀歌だと思う。

 

 自分と誰か/何かを比べるときに、劣っているな、と思うことはあまりないけど、追いつけないな、とか、遠いな、と思うことはある。おれの好きなひとは、いつも遠くにいた。おれは、同じところに行きたかった。ここに来てほしいとはすこしも思わなかった。どうやったら近くに行けるのだろうとか、思ったし、いまも思う。遠ざかるばかりで、おれにはだめだった。おれはいつも間違っていて、あなたはいつも正しかった。きっとそうだ。ここではないどこかへ、行きたい。遠くへ、遠くへ。あなたがいなくなって、おれはおれからどこに向かうんだろう。元気してますか。おれは思い出の記憶もどんどんねじれていってるんだろうとか思うと、嫌になります。いま、どこにいるの?

ひかりを探す

 自分が長い時間をかけて探していたものを、あなたがふらっと来てあっさり見つけてしまう、ということがよくある。もともとものを探すのが上手なわけではないし、どちらかと言うとよくなくしてしまう。忘れたくないことばかり、忘れてしまっているような感じがする。大切なものを抱えておくには、わたしの腕はあまりにも短い。わたしはあなたのことを好きだと思うけれど、それが食欲や睡眠欲の類いに勝てる欲求ではないことを悲しく思う。欲求の性質が違うとか、そういうことは慰めにはならない。もっともっと深いところで、欲しい、と思うことができたらいいのに。世界はせまい。だのにあなたはいつも遠くにいる。顔を見て、話をすることはできても、頬を引っ張ることはできない。指でなぞることすらできない。声を直接聴きたい。触りたい触りたい触りたい。強く願っても、わたしに翼は生えてこない。あなたは泣かなくていい。泣くのは、わたしのそばにいるときだけでいい。それも、あたたかい涙であればいい。遠くで何かが光る。わたしの触れない、遠いところで光る。